ルームメイトのダニエル

 

 留学先の寮生活ではダニエルというスペイン人のルームメイトがいた。ルームメイトと言っても彼は学生ではなく、大学に夏限定で働きに来ている27歳の職員で、事務の仕事をしたり、ツアーガイドをやったり、子どもたちにスポーツを教えたりして、彼自身自分の今の職業をなんと説明していいか分からないと言っていた。

 私が入寮する少し前からダニエルは寮に住んでいて、私が寮生活初日の夜にルームメイトとこれから始まる留学生活についてくつろぎながら話しているときに、仕事帰りのダニエルが突然部屋に帰ってきて、お互いに驚いた。ダニエルはひとりで暮らしていた部屋に、突然見ず知らずのアジア人数人が座って話しているし、私たちはこれからの生活をどう生き延びるか話し合っていたところに、突然「Hi!」と言って金髪のイケメン西洋人が部屋に入ってきたので、状況を理解するのにしばらく時間がかかった。そういえば、棚の中には古くなさそうな食パンとピーナッツバターが入っていたし、冷蔵庫にはまだ食べられそうな林檎が一つ入っていたが、前の住人が忘れていったか、好意で食材を残していってくれたのかと思って特に気にしていなかったということがあった。

 ダニエルは、毎日無料の食事を職員用の食堂で済ませてきて、20時ぐらいに寮に帰ってきた。職員はすべての食事代が無料で、寮の家賃も1セントも払っていないため、生活費は全くかからない。その上アイルランドの賃金はスペインよりもかなり高いらしく、ダニエルはこの期間でかなりの貯金ができて、家族に給料の一部を渡すこともできると誇らしげに話していた。また、ダニエルはかなりの節約家と見えて、毎朝水筒に水道水を入れて持ち歩き、スーパーで買ってくる食材は安い食パンと林檎のみで、お菓子やアルコールなどを買ってきているのを一度も見たことがない。

 ダニエルは仕事から帰ってくると、「ヘイガイズ!」と一言挨拶をしてから、荷物をベッドルームに置いて、水道水を水筒に入れなおしてから、共有スペースのソファに寝転がって水を上手そうに飲むのが日課であった。私たち日本人学生はそのタイミングを見計らってダニエルと話すためにベッドルームに行った。今思えば休みたいときにアジア人学生に質問攻めにされて、ダニエルには少し申し訳ないことをしたのではないかと思う。しかし、スペインの小学校でフルタイムで体育教師をやっていて、ヨーロッパ以外の国には行ったことがないというダニエルにとって、英語を喋るアジア人と話すのが珍しかったのか、迷惑そうな素振りは全く見せずに質問に丁寧に答えてくれたし、英語が伝わらないときには分かるまで言い直してくれたし、聞きなおしてくれた。何よりダニエルは、アイルランドの生活が本当に楽しそうだったし、彼自身アイルランドで働くことが念願の行事だったらしい。

 ダニエルの英語はスペイン語訛りが強くあまり流暢とは言えなかったし、私がやや難しい英単語使うと理解できないこともあった。それでも彼はアイルランドで働き、子どもたちにスポーツを教えたり、ツアーガイドをしたりしているので、初めて海外に来た私にとって、自分の英語力ですでに英語圏でやっていけるという確信になった。とはいえ、同じぐらいの英語力なのに、私は高い料金と高い生活費を払ってここに座っていて、ダニエルは高い給料をもらって無料の食事付きで同じ場所に座っていることが不思議であり、ずるいとさえ感じた。その話をすると、ダニエルは大笑いをして、少し考えてから、

「確かにそれはおもしろいね。ただ僕はラッキーなだけだよ。スペイン人がアイルランドで働こうと思っても簡単に仕事は見つからないし、たまたま今働いている職場のボスがスペイン人で、英語ができる体育教師を探していると聞いたから、チャンスを逃すまいと急いで申し込んだんだ。」

 ダニエルは学校で人気の若い体育教師の素質を備えた話好きの好青年だった。私たちの大学での勉強のことや将来の計画、自分が若かった時の話などまじめな話もしたし、週末にバーで同僚とナンパしてウクライナ人女性をゲットした話など国籍を超えた男同士の話もした。

 話はアイルランドでの言葉の苦労の話になった。アイルランド人の英語が全く聞き取れないこと、英語圏外のヨーロッパ人の訛りのある英語が理解できないということは私たちと共通だった。スペイン語訛りや日本語訛りは時々苦労するし理解できなくて聞き返すこともあるが、特にannoying(イラつかせる)なのはドイツ人のドイツ語訛りの英語だと話していたのが面白かった。

「日本にいると、英語を話す機会がほぼないから、なかなかスピーキングがうまくならないし、かなり頑張ってないと、どんどん英語の能力が落ちていく気がするんだ。今は大学生だから英語を勉強する時間がたくさんあるけど、卒業して働き始めたら勉強する時間なんて多分ないし、英語が必要ない仕事なんか始めたら、すぐに英語の能力がゼロになりそうなんだけど、どう思う?」

私は思っている英語に対する不安を率直に質問した。

「ああ、スペインも日本と全く同じ状況だよ。若い学生は比較的英語ができるけど、学校以外で英語なんて全く必要ないし、大都市以外には外国人もいないから、卒業したらどんどん英語はできなくなっていくよ。」

 私はこの問題は東アジアという地理的な問題が原因だと思っていたので、スペインでも同じ問題があるということに驚いた。というか、ヨーロッパの先進国の人はみんな英語ができると思っていたが、それは迷信だったということが分かった。英語力が高い北欧の国などを除けば、スペインにもフランスにもドイツにもイタリアにも英語が全く話せない人がかなりいるらしい。

「英語ができなくなるのは仕方がないことだよ。完璧に英語を維持することは可能かもしれないけど、働き始めたら新しく覚えないといけないこととか、頑張らなきゃいけないことがほかにもあるでしょ。スピーキングは必要になったら、英会話とかで時間をかけてもう一回できるようになればいい。でも、もし将来海外で働きたいと思ってるなら、”understanding”(理解すること)の能力だけは落としちゃいけない。聞くことと、読むこと。生活するのにも働くのにも、英語を理解することが一番大事だから。」

 日本の英語教育がスピーキングに力を入れていないことを嘆く人は多い。私も高校卒業の時点で外国人と英語で難なくコミュニケーションが取れればよかったのにと何度も思ったことがある。

 しかし、ダニエルは英語で大事なことは理解することで、スピーキングはそれほど大事ではないと主張する。英語の4技能で言うと、リーディングとリスニングである。実際私もアイルランドでしばらく生活してみて、相手が何を言っているか分からなければ、コミュニケーションは成立しないし、街や空港にある注意書きや、アナウンス、スマホで調べた情報を正しく理解する能力がないと生きていくことが難しいということを実感していた。

 「understandingの能力を維持することは、スピーキングを練習するよりもずっと簡単で、英語のニュースを読むこと、英語の映画を観るときに字幕や吹き替えに頼らないこと、基本的な英単語は忘れないようにたまに勉強することとかで維持できるよ。まあ、苦しくない程度に続けることが重要ってこと。スポーツと一緒でね。せっかく今君はそんなに英語ができるんだから、10年後とかに海外で働くチャンスが巡ってきたときに逃したらいけないよ。」

 ダニエルに質問すると毎回感心させられる回答が返ってきた。きっと彼はスペンでは人格者でかなり優秀で生徒から人気のある体育教師なんだろう。何日か話しただけで私たち日本人学生の兄貴的存在になってしまったのだから。彼は今もスペインで体育教師を続けているだろうか。アイルランドで稼いだ大金は何に使っただろうか。彼とルームメイトになったことは留学してよかったと思えることの一つである。連絡先を交換するタイミングがないまま私たちが先に帰国してしまったので、ダニエルが今何をしているのかは全く分からない。もう一度会ったらまたいろいろな話を聴きたい。特に、私と同じぐらいの英語力で、バーでウクライナ人をナンパして成功した方法について。