ダブリンのゲイバーに誤潜入

 ダブリンは小さな街なので、観光するにはとてもいい場所だが、長期滞在者にとっては少々退屈な街である。いくつかの観光名所にすでに行ってしまった日本からの留学生たちは、楽しみを観光地以外の場所に見いだす。地元の人が利用するレストランやバー、映画館や書店などは観光地とはまた違うローカルな雰囲気があり、留学生から「ダブリンに住む外国人」になることができる。しかし、ローカルな場所は見つけにくく、たまたま通りかかった店に勇気を出して入ってみるか、地元の学生と友達になって教えてもらうなどしなければならない。私たち外国人にフレンドリーな店もあれば、そうでない店や、そもそも外国人が入るような場所ではない酒場などもあり、ハズレを引いてしまえば、少々厳しい時間を過ごすことになる。

 私は日本人留学生の仲間数人とアイルランドの伝統的なダンスショーを見に行き、感想を述べ合いながら、各国からの観光客て賑わう午後の中心街を歩いていた。道は歩行者天国の様になっており、いたるところでストリートミュージシャンが歌い、その周りには人だかりができている。築100年は優に超えているレンガ造りや石造りの建物と、ガラス張りの近代的な建物が軒を連ね、ZARAアディダスなどの多国籍企業と小さな土産屋や飲食店が混在し、色々な言語が飛び交う喧騒の中で不思議な調和を保っている。

 時刻はもう少しで4時というところだった。緯度が高いアイルランドの夏は日が長い。日は徐々に西に傾き始めたが、暗くなるまであと4時間はある。寮に帰っても特にやることもないし、せっかく街の中心部まで出てきたのだから、どこか寄って帰ろうということになった。

 だが、そのどこかが中々決まらない。有名な建物や博物館にはもう行ってしまったし、名物の食べ物もすでに食べてしまっていた。バーでビールを飲むのも気が進まなかった。アイルランドのギネスビールを毎日のように飲んでいたので、あの苦くて黒い飲み物にはうんざりしていたからである。

 「あ、俺クラブ知ってるよ!この前イタリア人の友達に教えてもらって一緒に行ったんだよ。そんなに大きくなくて外国人でも入りやすいから。確かここから歩いてすぐの場所にあったな。」

 「いいね、楽しそう!まだお腹空いてないし、そこ行ってみようよ!」

 

 

 そして我々一行は、そのクラブに行くことにしたのである。私は日本のクラブにさえ行ったことがなかったので、始めてのクラブが外国のクラブということに少し飛び級感を禁じ得なかったが、おそらくほとんど留学生が行っていないであろうクラブに足を踏み入れることに軽い興奮を覚えていた。

 「ここ!」

 大通りから少し離れた、観光客があまり立ち入らなそうな路地の一角にそのクラブはあった。レンガ造りの建物の交差点に面した角に2、3段の階段があり、その上で重厚感のある背の高い扉が開け放たれていた。扉の上には店名が掲げられ、その横でアイルランド国旗がひらめいていた。

 「本当にクラブなの?普通のバーっぽくない?」

 「大丈夫。ちゃんとDJブースもあるし、今は時間が早いから空いてるけど、もう少し経てば足の踏み場がないぐらい人が来るから。」

 クラブに行ったことがないだけでなく、見たこともない私は、そういうものなのかと思い、彼の話を信じてみることにした。

 店に入ると、人は少ないものの、大きめの音量でアップテンポな音楽が流れ、奥行きのある店内の手前にバーカウンターがあり、カウンターの奥が広くなっていて、入り口から一番遠い壁のセンターに一段高くなったDJブースがあった。まだDJブースにDJはいなかった。

「アパイントオブハイネケン、プリーズ!(ハイネケンを1杯ください)」

 BGMにかき消されないように私は店員に叫ぶようにビールを注文し、近くの空いている背の高い丸テーブルを見つけ、腰ほどの高さのある椅子に腰かけた。

「いつになったらクラブになるの?」

 BGMが大きいので自然と声が大きくなる。

「わかんないけど、この前来たときはクラブだったんだよ、DJもいたし。」

 

 私が店内の違和感に気づいたのは、ビールを半分程飲み干した時だった。壁沿いの二人席でビールを飲んで会話している男性二人の顔と顔の距離が異常に近かったのである。BGMの音量が大きくて声が聞き取りにくいということもあるが、あと3センチで鼻と鼻が触れそうな距離である。反対側のソファ席では男性二人が肩を組んで互いに寄りかかるようにして座っている。

 「そこにいる男二人、カップルなのかな。あと反対側のあの人たちも。」

 私は思わず話を遮って隣にいた友人に話しかけた。

 「あ、それ私も気づいてた。後で話そうと思ってあえて言わなかったけど。あと、あそこに座ってる小柄な男の人、めちゃくちゃバッチリ化粧してて綺麗。」

 違和感が私だけでなく友人も気づいていることに安心し、もう少しそのことについて話したい気持ちを抑えつつ、私たちはもとの話題に戻った。しかし、それから私たち以外の客のほとんどがゲイやトランスジェンダーの人々であることに気づくまでそう時間はかからなかった。

 世界には色々な人がいるけど、自分と違うから、普通と違うからと言って、突き離してはいけない。かといってLGBTの人を特別扱いする必要もない。いつも人と接するように接すればいいのである。でもこんなにたくさんのゲイに囲まれたことはない。忘れられない強烈な夜だった。一杯もしくは二杯のビールを飲み終わった私たちはグラスをカウンターに戻し店を後にした。店員が白のタンクトップにサスペンダー、そしてマッチョという古典的なゲイのステレオタイプのような格好していることにその時はじめて気づいた。

 店の外はまだほんのり明るく、人通りも落ち着き、店内の喧騒に比べると酔いから急に醒めたような静かだった。どう感想を述べたらよいか分からず、店を出てからしばらく無言の時間が続いた。少し遅れて店から出てきた友人が少し小走りで私たちに追いつき沈黙を破った。

「さっき店にいたアイルランド人のお客さんと少し話したんだけど、この店、クラブなのは週末だけで、平日はLGBTのコミュニティのバーなんだって。」

 アイルランドは世界で初めて国民投票により同性婚憲法で認められた誇り高きLGBTの国である。街中でも手をつないで歩く同性カップルや、女性物の服をまとった髭面の人が普通に歩いている。最近初めてLGBT関連の法律ができた日本と比べて、セクシャルマイノリティに関してかなり進んでいる国なのである。

「なんか、良い経験だったね。」

 皆が何も言わずにうなずいた。強烈な経験がまだ整理できていない私たちには、とりあえずその感想がぴったりだった。ビールの酔いが回っていることもあり、不思議な夢から醒めたばかりのような頭で歩きながら、もう一度振り返って店構えを見た。背の高い入り口の扉の上のアイルランド国旗の横で、レインボーの旗が堂々と夜風に揺れていた。